ぽじのうのう

しこうダイニング

痛みの存在意義

痛み。

 

これをポジティブに受け取るのはなかなか難しい。知れば知るほど、体感する種類や回数が増えるほどに、できれば人生で出会いたくない感覚、断トツ首位独走じゃないだろうか。

 

一部痛みを求める趣味嗜好の人もいるらしいが、常人の感覚からすると、その域に到達するにはハードルが高い。し、そこへのプロセスがまずわからない。し、ぶっちゃけ求めてなかったりもする。

 

だが、確実にヤツは存在している。痛みを未経験の人はいないはず。

 

と、普通に暮らしていたら言い切っていたと思う。

 

世の中は広い。自分の常識で測れないものはたくさんある。日本を一歩出ればカルチャーショックは確実に受けるだろうし、まだまだ未知なものの方がむしろ多い。

 

それは、わかっている。頭では。理屈としては。

 

でも、体感として、すぐ身近で感じると、本当にショックを受ける。常識という壁が崩れて、自分の世界が広がる感覚を覚える。まさにバリアフリー

 

そう。世の中には、痛みを感じない人がいる。メンタル的なことではなく、フィジカルで。物理的に。体が麻痺している人がそうだ。

 

歯医者で麻酔して治療したことがあるならわかると思うが、あれと同じ。触られても感じない。痛みも、熱さも何も。あの状態が、体のどこかにある人。

 

障害のある方に関わるようになったからわかったことだが、麻痺がある人は怖い。感覚のある人と比較すると、個人的には百倍怖い。

 

たとえば介助していて、どこかにぶつけたとする。感覚がある人なら「痛い!」と反応してくれる。「ごめんなさい!」で済む。いや済まない場合もあるが、ぶつけたところへの対処や、再発防止への対応は迅速に行える。しかし感覚がない人の場合、痛みがないので気づかない。当たり前だが、それが一番たちが悪い。骨折していてもわからないのだから。

 

完全に全身が麻痺している人はどうなのかわからないが、私の関わっている人は胸から下の感覚がない、いわゆる脊髄損傷の人。感覚がある部分は普通にある。その人に限ってのことだが、過去に足首をひねった時は、なんとなく見た目腫れているように見えて、なんとなく自身の体調もやや熱っぽかった程度だという。感覚があったらおそらく湿布貼らないではいられない痛みで、おそらくもっと腫れ上がると思う。でも麻痺している足だとその程度。

 

これをどう見るか。

 

ちなみにその時は、本人に足をやられたかもという心当たりがちゃんとあったから経過観察していて、幸いにも大事に至らなかった。

 

より問題なのは、本人が自覚していない場合。

 

ちょっと油断すると、踵や臀部が赤くなり、さらに気づかず放置すると穴があく。生きている人間の体に、穴があくんだよ!?それも何年もかけてという話じゃなく、始まりの赤みは一日でもなる。陥没へのスタートは驚くほど簡単に始まってしまうのだ。

 

赤くなっていた皮膚がいつの間にかいなくなり、肉すらいなくなり、肉眼で確認できる俗世にいるはずのない白い骨が…!!

 

いわゆる床ずれ、褥瘡というやつである。普通の人が寝ていても自然にやっている寝返りをうてないから。長時間同じ姿勢でいたら普通は違和感を感じた時点で自然と少し重心をずらしたりするが、それすらも意識しない限り永遠とやらないでいられるから。つまり感覚がない人は、自分の重さで血を止めっぱなしにして細胞を死滅させてしまえるのだ。(ちなみに圧をかけず血流を良くすれば、基本自然治癒するらしい)

 

怖い。

 

その人の知人で、同じく脊髄損傷の人は、どうも調子が悪いのだが原因がわからず、でもどこかおかしい…といろいろ調べた結果、腸捻転で、あと一歩で三途の川を渡るところだったという。

 

怖すぎる。


感覚がないということは、無意識に行っている反射も正常には起こらない。なので、熱湯を足にこぼしていても気づかず、そのままやけどする。鋭利な刃物を落としても…。

 

いろいろ想像すると鳥肌が立つのでこの辺にしておくが、とにかく、感覚がない部分がある人は、普通の人の何倍も意識していろいろやらないと、正常な肉体を保つことができないのだ。

 

そういう状態の人と比べてどうのという話ではないのだが、痛みというものに対しての見方、感じ方はかなり変わった。

 

あってよかった…とまではいかないが、ないことの恐怖がすさまじいことは、目で見て、肌で感じてわかった。痛みに限らずだが、感覚があることは、当たり前かもしれないけど、もっと大事にすべきことだと痛感した。文字通り痛いほどに!

 

まだ微妙に続いている腰痛。うっとうしいし、さっさと治まれと切に思う。もしこれがずっと続くとなれば、たとえ鈍痛であってもいよいよ最優先対処課題に躍り出る。

 

痛みに対する恐怖、嫌悪はもちろんある。原因不明だとより強く不安を覚える。だが、痛みを感じないとしたら、それもまた異質な恐怖を覚えると思う。痛みだけを感じない、なんて都合がいいシステムなら、それも自分でオンオフ可能なら、特に注射の際に導入したいところだが…もし一切の感覚がないとしたら、やはり話は別。

 

歯医者で親知らずを抜いた時。なんとなく腫れているような気はするけど、触ってもつねっても全く感覚がないほっぺが不思議で仕方なかった。噛むという行為自体はできるが、噛んでいる感触がない。調子こいてカチカチやっていて、感覚が戻った時に自分の口の中の肉を噛んで出血していたのを知った衝撃。親知らずを抜いたところの痛みが強すぎてすっかり忘れていたが、あれだって感覚がないからこそ平気で何度も自分の口の中を嚙んでいたわけだ。

 

痛みが、感覚が戻るからこそ、恐怖が強いのかもしれない。だが、もし感覚がないままだとしたら…

 

見える箇所はまだいい。感覚がなくても血は出るし、どこか見た目で異変があれば対応はできる。だが見えない場所だったら?腸捻転の人のように、内臓だったら?

 

痛みがないと、場所が特定できない。すなわち手遅れになりかねないのだ。

 

どうやら麻痺がある部分は、感覚がある部分よりも腫れたりする症状は穏やからしい。普通の人なら絶叫しているであろうレベルでも、ちょっと足が跳ねるくらいだったり。

 

だが、その穏やかな反応すら、逆に怖い。受けているダメージとしては同じだと思うと、より一層怖い。たとえば普通に世間話をしている最中、足首があらぬ方向にバキッと曲がったとしても、本人はそのことにまったく気付かず、そのまま笑顔で話していられるのだ。

 

ホラー!!


感覚、持っているものは大事にしよう。本当に。痛み上等。むしろ歓迎。迎え撃つことだけ考えず、まず受け入れてその声を、体からの声を聴こう。

 

痛み。

 

それでもやっぱり、あまり積極的に出会いたくはない感覚に変わりはないが

 

大事にしよう。

 

その思いを、痛みへ向けて直接綴ることにする。

 

 

拝啓


君との出会いはいつだったか、もう思い出せない。でも、それは人生において最初の衝撃だったに違いない。

 

好きと嫌いの、嫌いという感情を、私に一番最初に抱かせてくれたのはおそらく君だ。

 

でも、成長して、いろいろなことを考えられるようになってきて、私は悟った。

 

君がいるから、私はこうしてのうのうと生きていられる。それは間違いない。何かあっても君が真っ先に教えてくれると信じているから。

 

邪険にして申し訳ないと思う。本当に。もし君さえいなかったら、定期的に献血しても構わないのにとは思っている。そういう同志は少なからずいるだろう。

 

だが

 

君がいてくれてよかったと、前向きに言えるようになるには…私はまだまだ未熟なんだ。

 

すまない。正直、できることならやっぱり会いたくはない。頭ではわかっているけど、自分の気持ちに嘘はつけない。

 

出会ったときから今まで、やっぱり君のことは嫌いだ。

 

でも

 

受け止められるようになるよ。なってみせる。…ある程度は。

 

だから、君にもお願いがあるんだ。

 

いっぱいいっぱいで気づいてないこともあるかもしれないが、できれば

 

できれば、優しく呼びかけてくれないか。

 

聞こえてないと思ったら、少しずつ大きくしていくのは構わない。むしろそうして欲しい。目覚ましのアラームのように、スヌーズ機能もあると嬉しい。

 

だが

 

お願いだから、いきなり爆音で警告してくるのはやめて欲しい。

 

緊急事態もあるだろう。確かにその時は致し方ない。そこはそちらの判断に任せる。

 

でもそうじゃないならもっと、できればわかりやすい形で、信号を送ってくれまいか。

 

贅沢な願いだとわかってはいる。

 

だが、お互いこの体の一部として、協力していくことはお互いのためでもあると思うんだ。どうだろう。持ち帰っていいので、考えてもらえないだろうか。

 

こちらも今後はより一層、受け入れ、分析する能力を磨いていこうと思う。アンテナの精度も上げていきたいと思っている。

 

共に、健康という共通目的のため、切磋琢磨していこうではないか。

 

今後とも、末永く…よろしく頼む。


                                      敬具

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

心が先か、体が先か

『病は気から』とはよく聞く。『元気があれば何でもできる!』も同じカテゴリーだと思っている。

作り笑いであっても、笑うことで免疫力があがるとか。そして笑うことができる動物は人間だけだとか?「ほー。すごいな人間」と初めて聞いたときは素直に感心したものだ。

まあ、このあたりもまだ、うん。そこまでじゃないからこそ出る言葉というか。

何が言いたいかと言うと

体が病んでいる時はたいてい気持ちも落ちるよね、ってこと。

まさに今日。朝から常時“激”をつけてもいいくらいの腰痛。

思い当たる原因はあるから、最大限にできる自己対応は行った。

①温める。たぶん血行不良の、だいぶこじらせたグレ方したやつだから。文明の利器、小豆のなんちゃらやゲル状のなんちゃらをレンチンするだけ!外出時は貼るカイロ!完璧!!

大体はこれで落ち着く。というか和らぐ。

しかし、今日のこの感じ。レベル1の対処法では全然足りない。よって次の段階へ。

②湿布を貼る。温でも冷でも効果は同じらしいが、気分的には温。だけど温シップは唐辛子が入っているのか皮膚が悲鳴を上げたことがあるのでうちにはない。よって常温のタイプ。

できればお薬的なものは使いたくない派。でも必要に応じて強度は上げていく。

というわけで、本日は早々に禁じ手。

③鎮痛剤を飲む。これは最終手段。だが効くまでに少々時間がかかるため、決断は早めにしないと意味がない。

耐えられるかどうかの痛み度合にもよるが、今日は小一時間で薬に手を出した。仕事の前だったから。休日だったら…休日でも飲んだかもしれない。そのくらいの痛みだった。もう少しマシだったら、半身浴とかしてあったかいものを飲んで、安楽体位を求めてゴロゴロ休日だったかもしれないが、いかんせん、仕事だったので。

しかし

今日の痛みは強い!

腰にロープ巻いてたくさんのタイヤを引きずるトレーニングしている人が『うぉぉぉぉぉ~っ!!』って心の中で低音でずっと叫んでいる、そんなテンション。その「重い」を「痛い」に変換した感じ。

とりあえず、久々に我慢できないくらいの痛みだった。

そういう時は、やっぱり気持ちも落ちる。絶えず痛みがともにあり、何をやるにも邪魔をされる。思考も「痛い」が半分以上を占めていて、なかなか他のことに集中できない。

つまり、体に痛みがあるときは、心も病む。連動して。

じゃあ、体が先?

いや。そうとも言えない。

薬を飲んでも多少和らいだ程度で、常に痛かった。

なのに

仕事中、笑い声が出るくらい話が盛り上がった時、なぜか痛みの記憶がない。同僚と愚痴を言い合って夢中になっていた時も。

その数分だけたまたま痛みがなかったわけはないのだ。なのに、痛みを感じていなかった。

夢中になっている時は、痛みよりもそっちの感覚が優先されたということだろうか。

人の感じる感覚には優先順位があって、かゆみよりも痛みの方が優先されるという。かゆいところを冷やすと、冷たさを感じる方が強くなって、かゆみを忘れるらしい。生命に危険のある感覚が優先されているようだ。ちなみに虫刺されの上に爪で×を付けるといい…と昔聞いたことがあるが、この理論でいくと、痛みでかゆみを上書きする、ということではなかろうか。あながち間違っていない!?

話がそれたが、つまり、痛みという感覚は人にとってかなり上位のもの。

それが、夢中になったり感情的になったりしているときに感じなくなるというのは…

気持ち、心の状態で、体の痛みを忘れられるということだ。

つまり、心が先?

いやいや、結局のところ、心身は切り離せるものではない、ということではないか。

体が病んでいる時は、間違いなく心も病む。これは間違いない。そして心が病んでいる時は、体にも支障が出る。これも体感済み。実際ストレスフルが続いた時、3日で1.5キロ体重が落ちた。1年かけてもまともに1キロ落とせないでいる、この私が!正直、怖かった。正直、一瞬ストレスダイエットを考えなくはなかったが、やはり怖い。ウイルスの比じゃない、ストレスの底知れぬ黒ポテンシャル。心がいっぱいいっぱいの時は、体もいっぱいいっぱいになってしまう。

そう。連動しているのだ。

ただ、今日体感した通り、プラス要素も連動しうる。

心がイイ感じの時は、体も、少なくとも悪くはない。スパイダーマンを観た後は何だか自分も糸が出せそうな気になり、ドラゴンボールを読んだ後はなんとなく髪の毛逆立って力がみなぎっているような感覚になる。

そして、健全な魂は健全な肉体に宿る。アニメで聞いたことがあるようないいお言葉通り、体が健やかであれば心も健やか…かどうかは時と場合によるが。少なくとも自由に思考ができるキャパはある。

本日の自分の状態。とりあえずハッキリしているのは、体は病んでいる、つまりマイナスな状態であるということ。そして黙っていても心も引っ張られて沈むということ。


ならば

今こそ使おう。この印籠を。

『病は気から』!

仕事は何とか乗り切った。まさに気、合いで。腰に負担がかかる内容だったら申し出ようかと思ったが、今日はマイペースで動けたのでそこは迷惑をかけないで済んだ。

あとは帰宅後のフリータイム。

何度見ても笑い転げるお笑いを見て、夢中になれるアニメに没頭して。痛みを感じる時間を少なくすればいい。

もちろん、物理的に、痛みの原因を取り除くことも手を抜かない。

半身浴、今日はええい、入浴剤も入れちゃうぞ。少しぬるめで30分コース!

そのあとは暖かいショウガ湯にはちみつもサービス!中からもぽかぽか作戦!!

さらには、ゆっくり呼吸を意識して、ツボを押したりストレッチしたりヨガをしたりして、眠気が来たら心地よく夢の中へ…。

完璧や♪


なんて

腰痛と真っ向にバチバチやっている時点でめちゃくちゃ痛みを意識しているのだが(つまり忘れていない)

こうして、次どうしよう、他にどうしてやろう…とあれこれ考えをめぐらせることは、意外と楽しさもあって

忘れさせはしなくても、多少痛みが和らぐくらいの効果はある模様。(あとは実践あるのみ)


痛み…

たぶん痛みレベルとしてはさほど変わってないと思うのだが、なぜだろう。耐えられるようになってきている気がする。今日1日、ずっと痛み続けているのに…。


ハッ


これ、自分が成長した!?

【〇〇は忍耐力が5上がった!】テッテレー♪

的な?同じ痛みでも朝よりつらく感じなくなったってこと?忍耐力が上がったというより、もしかして痛みの感覚が鈍くなった?それとも、単純に痛みが治まってきているだけ??

どっちにしても…


とっとと寝よう!(ドクター睡眠・最強説)

マスクの下に潜む恐怖

マスク生活が始まって2年。慣れてきたとは言え、煩わしいことに変わりはない。息苦しいし。夏は「マジ無理~」って感じだ。

 

早く解放されたいのは山々だが、コロナ禍が落ち着いたようにはあまり感じられない状態で『とりあえず外で三密じゃない状態なら外していいヨ♪』と言われましても。逆にね?それでどのくらい増えるかの実験じゃないですよね?って確認したくなるくらい、いろいろなことにすっかり懐疑的。

 

なので、おそらく当分はこのまま、脱マスクに対しては慎重派。

 

それはさておき。

 

つい先日、スーパーで店頭のチラシを見ていたら、カートが去った後に何か落ちているのが視界に入った。視線を上げると、一桁の子連れの若いママさん。おそらく彼女か子供が落としたものだろう。

 

『あの、落としましたよ』

 

それを拾って、ハイと渡す。

 

たったそれだけのこと。今までは当たり前に、それこそ反射的にしていたであろうこと

 

が、できなかった。

 

躊躇したのには、いくつか理由がある。

 

まず、距離。チラシを見ていたせいで、落とし物に気付いたのがちょっと遅かった。早歩きで動いていた子連れママさんとは、すでにかなり距離が離れていたのだ。そこで想定通りの反応をする場合、結構な声を張り上げなくてはならない。

 

マスクはしてるし、周りにそんなに人はいなかった。別に声を上げてもよかったと思う。必要であれば問題ないレベル。

 

でも、もう一つ。落とし物との距離からすると、私が声掛けだけで終わるのは不自然。むしろ先に物を拾って近づきつつ『あの、これ落としませんでした?』というのが正解。

 

だが

 

時代はコロナ禍。もちろん私は素手。落とし物はハッキリとは確認しなかったが、バンダナのような、ヘアバンドのような…布製の何か。それを他人である私が手づかみして、親切心丸出しで『ハイ!』と手渡しすることを良しとしない人だったらどうしよう。逆に迷惑にならないか。子供がいる親御さんならコロナには過敏だろうし。私が絶対持ってないとは言い切れない。(今のところ無症状健康そのものだけど)

 

どうしよう。この距離で『落としましたよ』と聞こえるように言うだけだとしても相当な声量が必要。もちろん他の人の視線も集まる。そしてブツから近い私はリュック一つの身軽な身、一方落とし主は落ち着かない年頃の子連れで買い物カートを押しているママさん。

 

ないでしょ。声掛けのみ、はない。拾ってあげなよそこは~、ってなるでしょコレ。

 

そんなことを考えている間に、ママさんはサクッとカートと子供を連れて視界からいなくなっていた。

 

あー、手遅れ…

 

ではない。今からでもまだ間に合う。落とし主はまだ覚えているし、四の五の考えずに拾って後を追えばいい。

 

しかし

 

(もしかして、あのママさんが落としたんじゃないかもしれない。)

 

ふと、第3の理由が頭をよぎった。もしそうなら無駄足。じゃないにしても、それを拾ったからにはブツの管理責任は私に移り、サービスカウンターに届けるという強制ミッションへと切り替わる。

 

「…」

 

面倒。

 

第4の理由。私はその時、買い物代行の仕事をするためにスーパーにいた。つまり仕事前。強制ミッションになった場合の時間のロスを考えると、許される気がしてしまったのだ。

 

そう。『見て見ぬふりをする』という選択肢を選ぶことも。

 

結局、落とし物が何なのかハッキリ確認するより前に、私の視線はそこから離れ、体も離れ、そのまましれっと買い物業務へ向かった。

 

そのママさんとそのあとスーパーで出会うことがなかったのと、電話で細かいやりとりをしながらの買い物で他のことを考える余裕がなく、良心の呵責は気付いたら消えていた。

 

しかし

 

ヤツラ、黄泉の国から舞い戻ってきやがった!家に帰ってから思い出してしまった。なぜ、あんな簡単なことができなかったんだろうと。

 

考えれば、逆もある。知人曰く、子供は持ってる確率が高いらしいオミクロン。かもしれないそれを手づかみ。こっちもリスキー。よって、あれはアレで正解じゃない?

 

なんて

 

行動に移さなかったことを何とか正当化しようとする自分に、正直、嫌気がさした。

 

マスクのせいか。コロナのせいか。もともと積極的に人と関わる方ではないが、ああいう普通の反射的な行動をするくらいの勇気は持ち合わせていたハズなのに。

 

触らなかった選択肢は間違っていないかもしれない。万が一…だったとしたら。私もハイリスクな人に関わる仕事をしているので、そこに関してはかなり気を付けている方だし。

 

でもさ?

 

言い訳だよね、という声が全身を支配する。自分内裁判でブーイングの嵐状態。

 

「コロナのことがあるから躊躇したんじゃん!」

「落とした人がそもそも悪いんじゃん!」

「でも気付いていて、見たのに何もしないってどうなの?」

「ねえ?あんな子育て大変そうなさー、子供なだめながらあわただしく買い物してる若いママさんだよ?どうなのー?」

「だって子供は危ないって!なるべく関わらない方がいいって…」

「でもそれとこれは別じゃない?」

「全然別じゃないし!情けと感染対策の方がむしろ別じゃん!」

「渡して、そのあと手指消毒すれば良かったってだけじゃないの?」

「それは…」

「あっちだって気になるならシュッシュするだろーしさー」

 

脳内で堂々巡り。

 

わかってる。結論がすでに出ているからこそ、モヤモヤが消えないんだし…。

 

「ていうかさー。もしコロナじゃなかったら、フツーに拾って声かけて追っかけてたってことー?」

「そうだよ!」

「えー?絶対?」

「ぜっ…」

 

したかな。私。絶対に、拾って届けてた?

 

 

あの一瞬でこんなに躊躇した。タイミング逃したと思って、結構アッサリ見なかったことにした。

 

声を発さなかったのは、マスクをしていたせいだろうか。

 

マスクの下の素顔は、まだ『絶対』と言えるままだろうか。

 

コロナウイルスじゃなく、コロナ禍そのものには、もうすでに何かを汚染されているのかもしれない。

 

寝る前、マスクを外した素顔の自分をじっと見た。

 

何が正解だったんだろう。過去のことをどうこう考えても仕方ないが、やはり笑顔にはなれない。

 

鏡に映るのは、いつも覆い隠されている口元。

 

「…」

 

 

 

口ひげ―――ッ!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

二世帯せっけん

ものすごく些細なことでしあわせを感じると、自分、安上がりだなーって思う。

 

でも感じるんだから仕方ない。

 

そのひとつが、せっけん。

 

ボディーソープ、ハンドソープ。いろんな洗剤が液体化して、今や泡状へと進化している。

 

我が家にももちろんいらっしゃる。食器用、洗濯用、シャンプーも液体だ。風呂掃除用、トイレ掃除用、ハンドソープは、何と泡!最先端!!(?)

 

しかし、私は元来アナログなもの好きなようで、やっぱり居座っている重鎮、せっけん。


台所のふきん用はせっけん。そして洗顔もせっけん。(さすがに種類は異なるよ)

 

基本四角い形のそいつを、ふきんや手でこすって、少しずつ小さくしていく。使っている感。液体のボトルの残量を重さや目で確認するのとは少し違う、あの独特の使って減らす感覚。

 

…やっぱり好きなんだな、せっけん(笑)。

 

まず攻めるのは角。おろしたてはまずまんべんなく角を削るところから始まる。

 

いや、そこまで角を敵視しているわけではないし、意識しているつもりもないが、自然とそうなる。最初は大胆に、途中は中だるみして、最後、薄っぺらくなっていくせっけん道中。

 

手でもみもみしながら、まだいけるか、そろそろ次のを出そうか考える。面倒だからたいていはまた次回、ということが多い。そしてその次回に、大体パキッと折れて少なからず絶叫する。心の中で。

 

そうなったら仕方ないので、折れた子たちを集めて、優しくなだめすかし、何とかまとまってもらう。これも力加減を間違えると…一家離散。粉々に砕けて排水溝の藻屑と消える。割と繊細な作業である。

 

それなりにうまいこと使ったせっけんは、最後、マンゴーの種のような形になる。下手したら手が切れるんじゃないかというくらいにまで育てたせっけん。

 

いよいよ新世代との合体!

 

そう。この新旧合体作業。これこそがせっけん道のハイライトと言っても過言ではない。(そうか?)

 

新世代をまずはまんべんなく濡らし、硬くなっている新人の心と表面をほぐしてやる。この下準備は大事。少しぬるま湯の方が今後の関係性が良好になりやすい。

 

そして、今にも崩れそうな、弱り切った旧世代を丁重に、そ~っと、そお~っとその上に乗せる。着地できればとりあえず第一関門は突破。無事顔合わせ終了である。

 

そして本番はこれから!

 

初めて出会った若者とシニア。その壁をいかに取り払うか。これはせっけん社会においてもやはり難問の極みなのである。そして何といっても最初が肝心。ここでしくじると、後々亀裂が入ったり、いつの間にか離別していたり、旧世代がバラバラ事件になってしまうといった切なすぎるバッドエンドにまっしぐらだ。

 

慎重に。冷静に。しかしやや熱め、そして適量のお湯でもって、ことにあたらねばならない!

 

焦りは禁物。長年頑張ってきて消耗しきっている旧世代と、入ったばかりのカチコチ新人、そうそう簡単に打ち解けられるはずがない。初日は顔合わせ程度にし、そのまま少し時間を置く。

 

そして翌日。少しお互いを知った彼らに、優しく降り注ぐ太陽のように、またぬるま湯を注く。湿らせる程度に、滴々と。

 

ここで注意しなければならないのは、その量と勢いだ。水を差すがごとくダバーッとやってはいけない。せっかく仲良くなりかけている両者をアッサリと引き離してしまう恐れがある。あくまでもそっと見守るように

 

『白湯でもいかがですか』

『お背中流しましょうか?』

 

くらいの感じ。嫌味なくお手伝いするくらいの気持ちで接しなくてはならない。

 

ここらでどんな具合かと、両者の関係性を確かめたくなるのが人情。だが!まだ、まだ触ってはいけない!ここまでやってきて、物理的に引き離したら元も子もないではないか。見て見ぬふり。それが大人の対応というものだ。

 

そうだ。我慢だ。もう一日待とう。忍耐力も鍛えられる。なんと素晴らしい鍛錬だろうっ!?

 

そして翌日。同じように愛という名のぬるま湯をポタポタと注ぐ。そして旧世代の乾いた縁をそっとなぞるようにして、新世代に溶け込ませる。もちろんそっとだ。くすぐるくらいの優しい力で。両者の境目が消えるまで、これを根気よく繰り返す。

 

そんなこんなを経て。数日後。

 

完璧に融合した二世帯せっけん、ついに誕生!!

 

少し盛り上がり部分に旧世代の名残がある、二世帯せっけん。完璧に融合させると、ちょっとやそっとじゃビクともしない。はがれる心配もまったくない。

 

そのパーフェクト状態に仕上げられたとき、そしてそれを使っているとき

 

私はこの上ない幸せを感じてしまうのだ。

 

確かに、それなりの労力、気力、時間を注いではいる。しかし、言うたらたったそれだけのこと。それでこんな嬉しいか?と自分で突っ込むくらい、嬉しい。ひとりニマニマが止まらないくらいには、嬉しいのだ。

 

見事にハモった二世帯せっけんも、いつの間にか旧世代がいなくなる。(これが思った以上に長生き)

 

そしてあんなに厚顔だった新世代も、世間の荒波…もとい私の手荒い手モミにも揉まれ、時間とともにすり減ってゆき、また次の世代と融合することになる。その繋がっていく感じも嫌いじゃない。

 

もちろんしくじることも多々ある。熟年離婚もあるし、若夫婦だってパックリ割れてしまうこともある。シニア世代は骨粗しょう症かと突っ込みたくなるくらい脆くて扱いづらい。志半ばで下水ロードへ召された時は阿鼻叫喚ものだ。

 

でも、所詮せっけん。いつか泡となって消えてなくなる定め。やっちまった時は大して引きずらず、案外きれいサッパリ忘れてしまう。まさかのせっけん効果?

 

そうしたあまたの失敗を糧に、世代交代の時がくると『よっしゃ、今回こそは…!』と仲人よろしく意気込むのだ。しかし、ぶっちゃけその機会はあまり頻繁には訪れないため、苦い経験が活かしきれないこともしばしば。せっけん道は甘くないのである。

 

しかし、やり遂げた時のあの喜びを求めて、時が来るたびに挑んでしまう。それがせっけん道。

 

たかがせっけん。されどせっけん。この先もきっと、やめられない止まらない、マイせっけん生活。

 

いつか二世帯せっけんマイスターになって、オリンピック出場でも目指してみようか。ギネスもいいネ。

 

泡とともに夢まで膨らむ、せっけん生活。まだまだ、きっと当分続くだろう。たぶん。


ふわっとしてしまうのも、きっとせっけんであるがゆえ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ぬか床は生き物である。

ぬか床をはじめた。

 

名前はまだない。

 

嘘。通称ヌカちゃん。あ、引かないで。大丈夫、まだ声に出して呼んだことはない。

 

生後約3か月。

 

最近は何でもハウツーがすぐにネットで調べられて便利だ。ぬか床や糠漬けについても例外ではない。

 

さてさて。基本生き物を育てることには、とんと疎い人生を送ってきた。ペットと名の付くものはもちろん、植物もいまひとつ。

 

それがまさか、ぬか床を育てることになるとは。絶対難易度高そうなのに!

 

漬物を作りたいなら、手っ取り早く塩もみでいい。みそ漬けもいいね。めんつゆで漬けるのも美味。長いもとかおすすめ。

 

それがなぜ、糠漬け。トーシロの分際で、何故に。

 

一言でいえば…『腸活』。乳酸菌とやらを積極的に摂らねばと思い立ったから。

 

季節や仕事、他にもいろんなことで体調に影響が出やすくなった。便秘や下痢になりがちな時、ふと、老舗のラッパーよりもビオフェルなんちゃらサプリの方が体に優しいんじゃないかと思い、試してみた。結果、即効性は落ちても効いている気がする。おお、乳酸菌やるな!黒い弾丸も心強いが、白いコナもなかなかいいじゃないか!

 

その後、ヨーグルトや乳酸菌入り食品等々、いろいろ調べて、ちょこちょこ取り入れてはきた。その中で気になったのが、糠漬けの高評価っぷり。漬物はあまり食べる習慣がない。けど嫌いじゃない。そして野菜不足も気になっていた。

 

…アリじゃね?(単純)

 

ひそかに憧れもあった。ぬか床を従えていると言えば…すべてを美味しいものに変えるマジシャン、おばあちゃん&オフクロ!そう。ぬか床=家事のプロ!!(あくまで個人的なイメージ)

 

でも、具体的に行動を起こすきっかけは別。

 

腸活を気にし始めた頃、同じく相方が突然はじめたのがぬか床だった。

 

そう。二番煎じ…。

 

しかし!やってくれるなら楽だしありがたい!実際ゆで卵だのわりと楽しそうに続けていたので、ほほえましく見守っていたのだ。自分もやりたい気持ち20%を胸に秘めて。

 

それが

 

案の定、というか。残念なことに、というか。

 

半年も経たずに挫折!

 

「なんか変なにおいがしてどうしようもないから捨てた」

 

いろいろ調べたらしいが、いい状態に戻せなかったらしい。まあ、結局のところめんどくさくなったんじゃないかと私はにらんでいるのだが。

 

「正解がわかんなかったんだよ。ニオイとか、大丈夫かどうかとか」

 

いや、まあでもさ。私も育てたことないからわかんないけどさ。売ってる糠漬けとそこまでかけ離れてなければOKじゃないの?

 

なんて

 

心の中で腕まくりしながら思っていた。

 

気持ちはまだある。(別に相方のリベンジしようとかではなく)

道具も一式揃ってる。(ありがとう相方よ。いろいろ買い揃えてくれて!)

 

あとは行動あるのみー!

 

そうしてはじまった、はじめてのぬか床ライフ。

 

3か月。

 

とりあえずまだ生きている。

 

と思う。

 

塩を足し、ぬかを足し、水分は引く。時にからし粉なんぞを投入し、混ぜては返し、混ぜすぎないように気を付けつつ、一日一回のザ・三密な逢瀬を繰り返している。

 

初めてだしわかんないことだらけ。子育てってこんな感じ?とか思いながら、見よう見まねで、調べながらひとつひとつ恐る恐るやってみる、を続けている。正解がわからない不安を常に抱えながら。

 

そしてはじめて数日後、いよいよ漬けはじめ!

 

まずは定番キュウリ!大根!人参!…味がしない!塩っ辛い!浸かる時間とサイズが調整できない!!

 

ええい、ちょっと持ち直すためにゆで卵行ってみよう!…やっぱりウマい!

 

あと定番て何だ?ナス!…きれいに漬かる鉄粉入りってのは誤植ですか!?見た目もさることながら、漬物のナスで不味いのなんて人生において初対面だよ!!(つまりマズかった)

 

カブ!…サイズ感考えてー?(前日の自分へ突っ込み)

ズッキーニ!…なんか、なんか違うなぁ!(好みの問題か)

パプリカ!…いよいよ正解がわからない!!(市販品どこかにないのか)

 

まあ、こんな感じで。この3か月、そこそこの旅をしてきたわけよ。(※たった3か月)

 

ここまでで得たもの、それは!

 

糠漬けはやっぱりキュウリが一番おいしい!

あと小松菜とか大根菜などの葉物が意外とイケる。キャベツも甘くてグー!

 

そして何より、そこそこ美味しくできた時の喜びね。

 

食べてみないとわからない塩加減、食感、匂い。漬物としての総合評価。それはもちろん、まだまだ。だけど、そこそこ食べられる美味しさが誕生した時は!

 

嬉しい。素直に。にんまりよ。まさに小躍り…乳酸菌が腸内でダンスパーティーしてる感じ!!(わかりづらい?)

 

で。当然課題も万倍に増えているわけで。

 

そもそも美味しさをアップさせるにはどうすればいいのか。

売ってる糠漬けみたいな風味は、この先熟成していけば出てくるものなのか。

できればナスを!いつかナスを、見た目も美しく最高においしい漬物にしてやりたい―――!!(裏テーマ:ナスのシンデレラ化)

 

ウッカリすると『一日一回かき混ぜる』という基本のキもまだ忘れそうになるが、気を引き締めて今後も育てていこうぞ。はじめたからには、責任もって。

 

ぬか床は生きている。そう、生き物なんだ。みんなみんな、生きているんだ!(タダシ雑菌ハ滅亡ヲ許可スル)

 

育てるぜ、ヌカちゃんを!私好みの乳酸菌ハーレムにしてみせる!!

 

…ぬか床容器に顔でも描こうかな?

 

そして

 

1~2日で漬かるというのに、はじめたばかりで楽しいのと、考えなしにチョーシこいて毎日いくつもの野菜をぬか床に入れたらさ。

 

そりゃあね?

 

二人暮らし、漬物なんてそんなたくさん食べないじゃん。塩分だって気にしてるのに。もともと割と薄味な方なのに。

 

うん。

 

どーすんだ、この塩分の山?

 

という割と深刻な問題が我が家に来訪中なのだが…

 

それはまた別のお話。