ぽじのうのう

しこうダイニング

痛みの存在意義

痛み。

 

これをポジティブに受け取るのはなかなか難しい。知れば知るほど、体感する種類や回数が増えるほどに、できれば人生で出会いたくない感覚、断トツ首位独走じゃないだろうか。

 

一部痛みを求める趣味嗜好の人もいるらしいが、常人の感覚からすると、その域に到達するにはハードルが高い。し、そこへのプロセスがまずわからない。し、ぶっちゃけ求めてなかったりもする。

 

だが、確実にヤツは存在している。痛みを未経験の人はいないはず。

 

と、普通に暮らしていたら言い切っていたと思う。

 

世の中は広い。自分の常識で測れないものはたくさんある。日本を一歩出ればカルチャーショックは確実に受けるだろうし、まだまだ未知なものの方がむしろ多い。

 

それは、わかっている。頭では。理屈としては。

 

でも、体感として、すぐ身近で感じると、本当にショックを受ける。常識という壁が崩れて、自分の世界が広がる感覚を覚える。まさにバリアフリー

 

そう。世の中には、痛みを感じない人がいる。メンタル的なことではなく、フィジカルで。物理的に。体が麻痺している人がそうだ。

 

歯医者で麻酔して治療したことがあるならわかると思うが、あれと同じ。触られても感じない。痛みも、熱さも何も。あの状態が、体のどこかにある人。

 

障害のある方に関わるようになったからわかったことだが、麻痺がある人は怖い。感覚のある人と比較すると、個人的には百倍怖い。

 

たとえば介助していて、どこかにぶつけたとする。感覚がある人なら「痛い!」と反応してくれる。「ごめんなさい!」で済む。いや済まない場合もあるが、ぶつけたところへの対処や、再発防止への対応は迅速に行える。しかし感覚がない人の場合、痛みがないので気づかない。当たり前だが、それが一番たちが悪い。骨折していてもわからないのだから。

 

完全に全身が麻痺している人はどうなのかわからないが、私の関わっている人は胸から下の感覚がない、いわゆる脊髄損傷の人。感覚がある部分は普通にある。その人に限ってのことだが、過去に足首をひねった時は、なんとなく見た目腫れているように見えて、なんとなく自身の体調もやや熱っぽかった程度だという。感覚があったらおそらく湿布貼らないではいられない痛みで、おそらくもっと腫れ上がると思う。でも麻痺している足だとその程度。

 

これをどう見るか。

 

ちなみにその時は、本人に足をやられたかもという心当たりがちゃんとあったから経過観察していて、幸いにも大事に至らなかった。

 

より問題なのは、本人が自覚していない場合。

 

ちょっと油断すると、踵や臀部が赤くなり、さらに気づかず放置すると穴があく。生きている人間の体に、穴があくんだよ!?それも何年もかけてという話じゃなく、始まりの赤みは一日でもなる。陥没へのスタートは驚くほど簡単に始まってしまうのだ。

 

赤くなっていた皮膚がいつの間にかいなくなり、肉すらいなくなり、肉眼で確認できる俗世にいるはずのない白い骨が…!!

 

いわゆる床ずれ、褥瘡というやつである。普通の人が寝ていても自然にやっている寝返りをうてないから。長時間同じ姿勢でいたら普通は違和感を感じた時点で自然と少し重心をずらしたりするが、それすらも意識しない限り永遠とやらないでいられるから。つまり感覚がない人は、自分の重さで血を止めっぱなしにして細胞を死滅させてしまえるのだ。(ちなみに圧をかけず血流を良くすれば、基本自然治癒するらしい)

 

怖い。

 

その人の知人で、同じく脊髄損傷の人は、どうも調子が悪いのだが原因がわからず、でもどこかおかしい…といろいろ調べた結果、腸捻転で、あと一歩で三途の川を渡るところだったという。

 

怖すぎる。


感覚がないということは、無意識に行っている反射も正常には起こらない。なので、熱湯を足にこぼしていても気づかず、そのままやけどする。鋭利な刃物を落としても…。

 

いろいろ想像すると鳥肌が立つのでこの辺にしておくが、とにかく、感覚がない部分がある人は、普通の人の何倍も意識していろいろやらないと、正常な肉体を保つことができないのだ。

 

そういう状態の人と比べてどうのという話ではないのだが、痛みというものに対しての見方、感じ方はかなり変わった。

 

あってよかった…とまではいかないが、ないことの恐怖がすさまじいことは、目で見て、肌で感じてわかった。痛みに限らずだが、感覚があることは、当たり前かもしれないけど、もっと大事にすべきことだと痛感した。文字通り痛いほどに!

 

まだ微妙に続いている腰痛。うっとうしいし、さっさと治まれと切に思う。もしこれがずっと続くとなれば、たとえ鈍痛であってもいよいよ最優先対処課題に躍り出る。

 

痛みに対する恐怖、嫌悪はもちろんある。原因不明だとより強く不安を覚える。だが、痛みを感じないとしたら、それもまた異質な恐怖を覚えると思う。痛みだけを感じない、なんて都合がいいシステムなら、それも自分でオンオフ可能なら、特に注射の際に導入したいところだが…もし一切の感覚がないとしたら、やはり話は別。

 

歯医者で親知らずを抜いた時。なんとなく腫れているような気はするけど、触ってもつねっても全く感覚がないほっぺが不思議で仕方なかった。噛むという行為自体はできるが、噛んでいる感触がない。調子こいてカチカチやっていて、感覚が戻った時に自分の口の中の肉を噛んで出血していたのを知った衝撃。親知らずを抜いたところの痛みが強すぎてすっかり忘れていたが、あれだって感覚がないからこそ平気で何度も自分の口の中を嚙んでいたわけだ。

 

痛みが、感覚が戻るからこそ、恐怖が強いのかもしれない。だが、もし感覚がないままだとしたら…

 

見える箇所はまだいい。感覚がなくても血は出るし、どこか見た目で異変があれば対応はできる。だが見えない場所だったら?腸捻転の人のように、内臓だったら?

 

痛みがないと、場所が特定できない。すなわち手遅れになりかねないのだ。

 

どうやら麻痺がある部分は、感覚がある部分よりも腫れたりする症状は穏やからしい。普通の人なら絶叫しているであろうレベルでも、ちょっと足が跳ねるくらいだったり。

 

だが、その穏やかな反応すら、逆に怖い。受けているダメージとしては同じだと思うと、より一層怖い。たとえば普通に世間話をしている最中、足首があらぬ方向にバキッと曲がったとしても、本人はそのことにまったく気付かず、そのまま笑顔で話していられるのだ。

 

ホラー!!


感覚、持っているものは大事にしよう。本当に。痛み上等。むしろ歓迎。迎え撃つことだけ考えず、まず受け入れてその声を、体からの声を聴こう。

 

痛み。

 

それでもやっぱり、あまり積極的に出会いたくはない感覚に変わりはないが

 

大事にしよう。

 

その思いを、痛みへ向けて直接綴ることにする。

 

 

拝啓


君との出会いはいつだったか、もう思い出せない。でも、それは人生において最初の衝撃だったに違いない。

 

好きと嫌いの、嫌いという感情を、私に一番最初に抱かせてくれたのはおそらく君だ。

 

でも、成長して、いろいろなことを考えられるようになってきて、私は悟った。

 

君がいるから、私はこうしてのうのうと生きていられる。それは間違いない。何かあっても君が真っ先に教えてくれると信じているから。

 

邪険にして申し訳ないと思う。本当に。もし君さえいなかったら、定期的に献血しても構わないのにとは思っている。そういう同志は少なからずいるだろう。

 

だが

 

君がいてくれてよかったと、前向きに言えるようになるには…私はまだまだ未熟なんだ。

 

すまない。正直、できることならやっぱり会いたくはない。頭ではわかっているけど、自分の気持ちに嘘はつけない。

 

出会ったときから今まで、やっぱり君のことは嫌いだ。

 

でも

 

受け止められるようになるよ。なってみせる。…ある程度は。

 

だから、君にもお願いがあるんだ。

 

いっぱいいっぱいで気づいてないこともあるかもしれないが、できれば

 

できれば、優しく呼びかけてくれないか。

 

聞こえてないと思ったら、少しずつ大きくしていくのは構わない。むしろそうして欲しい。目覚ましのアラームのように、スヌーズ機能もあると嬉しい。

 

だが

 

お願いだから、いきなり爆音で警告してくるのはやめて欲しい。

 

緊急事態もあるだろう。確かにその時は致し方ない。そこはそちらの判断に任せる。

 

でもそうじゃないならもっと、できればわかりやすい形で、信号を送ってくれまいか。

 

贅沢な願いだとわかってはいる。

 

だが、お互いこの体の一部として、協力していくことはお互いのためでもあると思うんだ。どうだろう。持ち帰っていいので、考えてもらえないだろうか。

 

こちらも今後はより一層、受け入れ、分析する能力を磨いていこうと思う。アンテナの精度も上げていきたいと思っている。

 

共に、健康という共通目的のため、切磋琢磨していこうではないか。

 

今後とも、末永く…よろしく頼む。


                                      敬具