ぽじのうのう

しこうダイニング

ひとりのいのち

元首相が撃たれる。

確かにショッキングな事件だった。

『え、マジで?え、銃で?え、日本だよね?』って思わず聞いてしまいそうになるあたり、日本はやはり平和なのだろう。平和ボケしていると言ってもいいかもしれないが。

いろいろと思うことはあったが、引っかかったことのひとつは

『命はみな平等』

これはまあいい。言わずもがな、割とすんなり受け止められる。

でも、前置きをつけたらどうだろう。

『立場や仕事や人種や性別や国籍や年齢や経歴など、どんな肩書きであれ…命はみな平等』

同じことなのに、とたんになぜか嘘くさくなる。さっきの自信満々な自分に偽善を感じて気分が悪くなるほどに。

こういった概念が
昔学校で習ったような常識的な考え方が

ただのきれいごとに感じられてならない。



被害者も加害者も等しく命。

人の基準で裁かれて死刑が確定している人も、同じく。

同じく?


もし緊急度の高い状態で同じ病院に運ばれていても…

とか

実際あったけど、大地震があったとしたら…

とか

じわりじわりと湧き上がるこれの答えは明白になっているんだろうか。この世の中。


人命第一。うん。

じゃあ複数の場合は?

緊急度が同程度の場合は?


優先順位
人の価値
命の値段

そんなことが脳裏をよぎる。

それらのすべての答えを、たとえば国をつくる政治家に求めるのは、やはり酷なんだろうか。

彼らもまた、ただのひとつの命だとしたら。

一票を投じるひとり
票すら持たないひとり
持っていても行けないひとり
持っていても行かないひとり
たくさんに投じられるひとり
ほとんど見向きもされないひとり

誰もがただのひとりであって
みんな、平等。

それがどこか腑に落ちないのはどうしてなんだろう。


考えても仕方ない。
比べてもどうしようもない。

この感情の落としどころを探そう。


まずできること。

結局、どうにかできるのは、自分自身という『ひとり』のことだ。

自分を、大事にしよう。
そしてそばにいる誰かを、大事にしよう。

それだけでも

みんなができるならそれだけでも


そう思うけれど

きっとそれも簡単じゃないんだな。

だって自身のことすらカンペキにコントロールできてるなんてとても言えないから。

そうだよ。人のこととやかく言ったりする前に、適正体重とやらになってみろよ、自分。ええ?


…うん。簡単じゃないな!

今日も世界中で何が起こっていても、自分は他人事のような当たり前の日常にいる。

現状維持もいい。変化を求めるのもいい。

ただただ、大事にしよう。

自分と、身近な人を。

欲張らずに、まずはそれから。

大事にしよう。

今、確かに動いているひとつの拍動を

この、いのち、というものを。