ぽじのうのう

しこうダイニング

プリンからコーヒーゼリーへ

プリンは好きだ。

 

いつからか記憶にないが、子供の頃から好きな、魅惑的なおやつのひとつ。

 

小さい頃はプッチンプリンをいかに上手に出すか、という遊び感覚も楽しみ、何よりあのビジュアルとプルプルツヤツヤでとろける甘さに夢中になったものだ。

 

大人になった今は、どちらかというと硬めで、苦いカラメルソースがしっかりかかっている、素材もシンプルなものが好き。手作り感の強いものの方に、より魅かれる傾向がある。親元を離れるとそういうものなのだろうか。

 

そして、子供の頃は無縁だった苦さの象徴みたいな黒い飲み物、コーヒー。あれはアルコールと並んで大人の飲み物というカテゴライズだったから、自ら手を出すことはなかった。

 

いつのまにやら「コーヒーは夏でもホット、そしてブラック一択」という、そこだけは大人になりきってしまったことに自分でビックリだ。他はさておき、そこだけは。

 

そしてコーヒー味のデザート中でも、苦みで子供の時はハードルが高かったのが、コーヒーゼリー。割とゼリー部分は甘味が少ないものが多く、ミルクと混ぜても若干コーヒーの苦みを強く感じる。アレが子供の時は「別に食べなくていい…」というものだった。

 

美味しく味わえるようになったのも、おそらく成人した後。そもそもコーヒーゼリー自体、店で並んでいても選ばない。人からもらったりして食べると、「あ、結構おいしい」という感じ。私の中では少しよそ行きの味なのだ。そういう意味ではやはり大人味。

 

プリンからコーヒーゼリーへ。

 

これは別に、嗜好が子供向けから大人向け、という意味ではない。実は食べ物の話でもない。ここまで散々普通にそれらのことをつらつら並べて置いてなんだが。

 

髪の毛。

 

そう、髪の毛の話。小さい頃は真っ黒。日本人は基本黒髪だから。

 

そして、いわゆる思春期になると髪を染めた茶髪の人が増える。一昔は茶髪にしただけでヤンキーだの不良だの言われていたが、今は割とおしゃれとして認識されている。

 

茶髪にしても生え際は黒なので、放っておくと髪の色が二色になる。全体は茶色なのに生え際だけが黒い。これを「プリン」と表現するらしい。なるほど。生え際はカラメルソースというわけだ。

 

だが、時が流れると、黒髪種族の日本人の髪もやはり白くなる。生え際だけが白。大抵は白髪染めで抗うと思うが、放っておくとやはり生え際が白くなり、大半は黒い。これは…「コーヒーゼリー」ではないか!

 

しかも、若い頃はお洒落で茶髪にする意味では楽しさが伴うが、白髪の場合はむしろ戦いだ。必死さが違う。黒と茶より、黒と白の方がその差が歴然で目立つから。

 

プリンからコーヒーゼリーへ。

 

甘やかされて好き勝手にとにかく楽しめた、無知で無邪気な子供時代。大人になればなるほど、やはり甘いだけではなくなる。だが、その苦さをも楽しめるのが、大人ってやつなのだ。

 

そして容赦なく領土を拡大してくる進撃のクリームを許容するまでには、もう一段大人の階段をのぼらなければならない。

 

そう、最後に行きつく先は…

 

ミルクプリン!いや、杏仁豆腐か!?

 

どんとこい。どっちも大好物だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

雨の日の不思議

起きたら外は雨。

 

ざー

サー

 

ずっと音が鳴り続けている。結構な雨量だ。

 

電気つけないと暗い、どんより天気。

 

気持ちは…少なくともハイテンションにはなりえない。

 

「うわマジか」

 

外に出なければならないので、基本そういった心の声が素直に出る。

 

雨。

 

気分はもちろん上がらない、すなわち停滞。

 

結構聞こえる井戸端会議の声も、子供の声も、ない。

 

生活音がない。

 

ただただ、雨。

ひたすら、雨。

 

さー

ザー

 

降り注ぐ音。

 

雨粒は目で追えないほどの速さで、目に見えない高さから地面に落下している。し続けている。

 

動いている。ものすごいスピードで、ものすごい量の水が。

 

ザー

さー

 

 

こんなにも雨音がしているのに

こんなにも激しくあわただしく大量の水が運動しているのに

 

雨の日は

 

静かだ。

 

 

ひとりのいのち

元首相が撃たれる。

確かにショッキングな事件だった。

『え、マジで?え、銃で?え、日本だよね?』って思わず聞いてしまいそうになるあたり、日本はやはり平和なのだろう。平和ボケしていると言ってもいいかもしれないが。

いろいろと思うことはあったが、引っかかったことのひとつは

『命はみな平等』

これはまあいい。言わずもがな、割とすんなり受け止められる。

でも、前置きをつけたらどうだろう。

『立場や仕事や人種や性別や国籍や年齢や経歴など、どんな肩書きであれ…命はみな平等』

同じことなのに、とたんになぜか嘘くさくなる。さっきの自信満々な自分に偽善を感じて気分が悪くなるほどに。

こういった概念が
昔学校で習ったような常識的な考え方が

ただのきれいごとに感じられてならない。



被害者も加害者も等しく命。

人の基準で裁かれて死刑が確定している人も、同じく。

同じく?


もし緊急度の高い状態で同じ病院に運ばれていても…

とか

実際あったけど、大地震があったとしたら…

とか

じわりじわりと湧き上がるこれの答えは明白になっているんだろうか。この世の中。


人命第一。うん。

じゃあ複数の場合は?

緊急度が同程度の場合は?


優先順位
人の価値
命の値段

そんなことが脳裏をよぎる。

それらのすべての答えを、たとえば国をつくる政治家に求めるのは、やはり酷なんだろうか。

彼らもまた、ただのひとつの命だとしたら。

一票を投じるひとり
票すら持たないひとり
持っていても行けないひとり
持っていても行かないひとり
たくさんに投じられるひとり
ほとんど見向きもされないひとり

誰もがただのひとりであって
みんな、平等。

それがどこか腑に落ちないのはどうしてなんだろう。


考えても仕方ない。
比べてもどうしようもない。

この感情の落としどころを探そう。


まずできること。

結局、どうにかできるのは、自分自身という『ひとり』のことだ。

自分を、大事にしよう。
そしてそばにいる誰かを、大事にしよう。

それだけでも

みんなができるならそれだけでも


そう思うけれど

きっとそれも簡単じゃないんだな。

だって自身のことすらカンペキにコントロールできてるなんてとても言えないから。

そうだよ。人のこととやかく言ったりする前に、適正体重とやらになってみろよ、自分。ええ?


…うん。簡単じゃないな!

今日も世界中で何が起こっていても、自分は他人事のような当たり前の日常にいる。

現状維持もいい。変化を求めるのもいい。

ただただ、大事にしよう。

自分と、身近な人を。

欲張らずに、まずはそれから。

大事にしよう。

今、確かに動いているひとつの拍動を

この、いのち、というものを。

ライフプランター

先日、種を植えた。いつぶりだろう。下手したら学生の頃以来じゃなかろうか。理科の授業とかの。

 

そして一週間後。何もなかったプランターの土の上に、緑が!

 

ほぼほぼ農業や家庭菜園なんかとは縁がない生活をしてきたせいか、かなりの感動があった。

 

えー、ちゃんと芽ぇ出るんだ、あんな仁丹みたいなのや、アンパンの上のケシの実みたいな粒から…。

 

すごい、生命すごい!植物、ちゃんと生きてる!ていうか植えたところから始まったとしたら、命が動き出すはじまりに関与したってことで…

 

なんかすごい感動!(単純)

 

何も植えなくても、いつの間にやら何かの芽が出てくることもあるが、求めるものは、ちゃんとその種を植えないと育たない。当たり前のことだけど。まあ、植えたところでまったく反応がない場合もあったりするけども。

 

小さな芽。でも、その命というエネルギー、動的なパワーに充てられたのか、生物としてのスイッチが入った。

 

 

植えてないな。自分に。

 

こうなりたい。ああなりたい。これができるようになりたい。こういう自分になりたい。あれがやりたい。コレはもっとこうしたい。

 

突き詰めたらたくさんある。ぼんやりした理想から、結構切実に必要な自分改革事項。さかのぼれば、幼い頃に抱いていた『将来の夢』。

 

だけど

 

それはまだ、想像、空想の域を出ていない。

 

実際それに向けて何か始めたか?

 

否。

 

夢は夢のまま、理想のままでいいというのなら、別に問題はない。今のままで。夢を抱く、という現状で満足なら、ある意味、もうクリアしていると言ってもいい。

 

でも、違う。叶えたい、近づきたい、変えたいという思いはちゃんとある。まだ完全にあきらめてはいない。

 

まだ種すら植えていない今、水をやる、肥料をやるという段階では到底ない。というより、本気で実現させようとするなら、まずプランターを整えなければ。土を。土台を、まず。

 

芽が出やすい、成長しやすい土はどんなものか。それすら調べてもいない。ただただ、思っているだけ。漠然と。それこそ無知な子供が抱く無制限無制約の夢のように。そこで止まっている。もう結構な年なのに。

 

自身のライフプラン。おぼろげにはいろいろ思い描いているけれど、まだまだぼやけた遠い未来には全然手が届かないし、道筋なんてさっぱりだ。

 

でも、ほんの少し先のことなら。こうなりたいという、ひとつのことだけなら。

 

種を植えて育て上げられるかもしれない。もう結構な年だし!

 

まず、プランター。とりあえず、ひとつだけ。



何にしよう。字をきれいに書きたい?体重をイイ感じに落としたい?英語で日常会話ができるようになりたい?

 

いや、あるのよ。種はたくさん。言い出したらたくさん。難易度やジャンルも多種多様に。でもいっぺんにいろいろ手ぇ出しても育て上げる技術がないことだけは、わかってるから!そこは自信持って言える!(笑)

 

思うように育たなくても、それはそれでまた一興。一期一会を楽しめばいい。失敗もまた、別のアプローチ方法を試す機会を生み出した、という成功でもある。費やした気力と時間に、何一つ無駄なことなんてない。

 

よし。やろう。

 

そして

 

実際に芽を出し、花を咲かせ実を付けるくらいに育て上げたら

 

いくつもの種を、見事に実らせることができたなら

 

そのにぎやかなライフプランターで収穫祭をしよう。

 

その時は、きっと胸を張って言えるだろう。

 

私は私のライフプランナーである、と。

 

40代。さすがに、これまでもいろんな芽は出ているし、実もなっている。身になっている。

 

でも、それは自らの意思で、しっかりと己が選択しすべて自己責任で育てたものかと言えば…そうではない。そうでないものの方が圧倒的に多い。

 

だから、これからなのだ。

 

費用や時間、すべてにおいて自己責任で始めるプランター。誰にやらされるでもなく、自らが選ぶ種。

 

そのひとつめは…何にしよう?

 

大人になって、いろいろと世間の常識やら、金銭的な壁、時間の制約、体力の配分、諸々、現実をある程度わかった上でも

 

やはりワクワクするらしい。

 

夢を思い描く、この時間は。

 

 

箸を求めて三千里

普段そんなにいろいろなことを気にしない方ではあるが、これはさすがに引っかかる。

 

箸が折れた。

 

それも、今年で三本目。さすがに気になる。二度あることは三度ある?三度目の正直??

 

調べると、案の定縁起がどうの魂がどうのと出てくる出てくる。でもネガティブにとらえて気にしていたら何もできないので、『ありがとう、お疲れさま』とこれまでの活躍に感謝して、普通に分別!折れた原因に全く心当たりがないならもう少し気にしそうなものだが、わりと明確にある。なので、『ゴメンナサイ』も追悼で添えておこう。

 

一本目は携帯用のプラスチックの箸。これはだいぶ年季が入っていたシロモノだ。確かケンタッキーのオマケでもらったやつ。それもいつだったか記憶にないくらい前。だからまあ、折れてもそんなに不思議ではない。プラスチックだが、オマケだからクオリティもそれなりだろうし。むしろよく頑張ったと思う。

 

二本目は、家で使っていた自分用の箸。木の、結構いいやつ。だと思う。親に何かの記念でもらったもの。多角形で非常に使い勝手が良く、気に入っていた。でも雑な性格が災いしてか、木の素材なのに水につけっぱなしにしたことも多数、使用頻度も高いから、恐らく劣化だとは思う。とどめとなったのが、硬い食材への無謀とも言えるナイフ的使用。完全に自業自得。

 

三本目は、この家用の箸に近いものを求めていくつか購入したうちの一本。つい先日、バキッと先端が飛んだ。

 

おいおいおい…

 

「ヤワだなっ!?」(自分の扱い方は盛大に棚上げ)

 

まだ使い始めて一か月程度なのに。確かに少し細めの先端ではあったが、さすがに早い。早すぎる。もう少し頑張れ?どこぞのふるさと納税の返礼お箸っ。

 

まだ何本か箸はあるが…やはりこうなってくると恋しいのは、親からもらった長持ちで丈夫で比較的気に入っていた木の箸。失って初めて、他と比べてより一層わかるあの箸の良さ。とりあえず買ってみた箸を使うほどに求めてしまう、あの箸の手になじむ感触。

 

よし。

 

あの箸、二代目を探そう!!

 

そうだよ、同じ箸を買えばいいんじゃないか。そこそこイイ箸だろうと、そんな何万円もするものじゃないだろう。自分で多少好きに使えるくらいは稼いでいる。たいした趣味もないんだし、強めのこだわりが芽生えたものにこそ、お金は使うものだ。そう、今でしょっ!

 

さっそく親に連絡。もう何年も実家に帰っていない親不孝者、せめて適度に連絡取るくらいはしないとと思いつつ、離れて暮らしているとそれすらなかなか。『子は鎹』と言うけれど、今回はまさかの『箸は親子の鎹』!きっかけと話題をありがとう、箸!

 

だいぶ前、それこそ十年とか昔のこと。親もすっかりお忘れになられておりました。くれたことすら記憶にない模様。残念っ!

 

でもここまで動いた以上こちらも諦めきれず、写真を送りつけて記憶回帰を図る。

 

「あ~、もしかしたら…」

 

きた?思い出したっ??やったー!!

 

と喜んだのもつかの間。

 

入手先はどうやら近場のデパートらしいのだが、それが常設の売り場ではなく、たまたま催事で来ていたお店だったと思う、と。

 

催事。そう、私の母は催事や物産展大好き人間。なぜ催事でわざわざ箸をセレクトしたのかは謎だが、あの箸に出会わせてくれたことには感謝しかない。だがそうか、催事で出店していたお店か…。

 

遠のいた~!!

 

しかし私の執心ぶりに影響されたのか、母もわざわざデパートに問い合わせてくれて。結局店名はわからなかったが、そこまでしてくれたことに、少々胸がじんわりと熱くなった。

 

こうなったら意地でもあの箸と再会したい。いや、してみせる!!

 

拙いネット検索技術を駆使し、時間と情熱を傾け、求めている箸は『けずり箸』という種類のものではないかと結論付けた。形状が酷似しているし、おそらくコレだろう。あとは素材や色、値段を自分で選んで…。

 

扱っている店もそれなりにあったし、決めかねていた。まったく同じ箸ではないのだが、かなり近いし、おそらくこういった形状が私の好みなのだろう。どれを選んだとしても、それなりに使っていけば気に入るかもしれない。実際に実物を持って試していないから躊躇しているのか、値段がいろいろだったからか、決めきれず、なかなかポチれないでいた。

 

すると、母から連絡が。

 

「確か『江戸木箸』っていうやつだと思うのよー。ウチもお父さんが箸買い替えようとしてて…」

 

え、江戸木、箸…?

 

えーと。急に真犯人出てきた感じなんですけど…『江戸木箸』?箸専門店の箸も結構眺めたけど、そんな名前の箸あったっけ?

 

検索した結果、取り扱っている店がすぐに出てきた。そしていくつか見ていくうちに…

 

「コレじゃん!?」

 

明らかに同じ箸!絶対コレってわかるくらい、同じ箸!!

 

即、親に連絡を入れた。店名や、ネットでも購入可能なことを興奮気味に告げると、向こうも自分のことのように喜んでくれた。お互いスッキリ晴れ晴れ。こんな爽快感は久しぶりだ。ちなみに母は私と同様、火サスや謎解きも大好物。これはひょっとしてDNAか?(笑)

 

かくして、お気に入りの箸にたどりつくことに成功した。

 

蓋を開けるとさほど難しいことではないのだが、普段なら、箸くらいなら代替えのものでもいっか~、とアッサリ諦める方なので、今回の捜索作業はなかなか新鮮で楽しかった。

 

そして、いかにあの箸の使い勝手が良かったか、自分が気に入っていたかを思い知った。別な近い箸でも気に入ったかもしれない。というかおそらく問題なく使っていたと思う。でも、同じ箸にたどり着いた時のあの喜びの感情は見過ごせない。

 

何かを好きになる、特別と思う感情を抱くことは、そんなに多いことじゃない。これもいい出会い。もう他の箸が使えない…となると現実問題かなり困るが、少なくとも家で自分が使う箸は、気に入ったものを可能な限り使い続けて、気分良く食事を楽しみたいではないか。

 

諸々の理由は後付け。要は、私はあの箸が単純にお気に入り、好きなのだ。見た目、形状、触感、使い勝手…すべてにおいて、使うとテンションが上がる、ザ・お気に入りなのだ。

 

よっしゃ、来たれ!我がアゲ箸(二代目)~~!!

 

届いたら、今度はもっと大事に使おう。木の箸の扱い方もきちんと勉強して、大事に、長く使おう。

 

うん。

 

そんなホイホイ買い換えるには、少々…お値段もイイので。ええ。イイ箸だけにっ!

 

 

For here or to go?

このご時世、テイクアウトできる店が増えた。

 

店で頂く美味しさが格別なのはもちろんだが、テイクアウトならではの楽しさもある。

 

・店で食べる味、どこまでテイクアウトでも味わえるか!?

ちょっと嫌な客?でも普段店で食べていたものなら絶対これはチェック事項。同じなら選択肢が増える。店の方がやっぱり美味しいなら、それはそれで店に行く欲求と楽しみが増す。テイクアウトの方が美味しい…ことはあまりない気がするが、時間も人の目も気にせず、ゆっくりと自宅で楽しめるのは悪くない。

 

・量を気にしないで買える

これ、意外と大事。店で食べる場合、一人一人前が基本。でももっと食べたい…けど、残したらどうしよう。持って帰れる?でも食中毒の恐れとかでダメかもしれないし、嫌な顔されるかもしれない。それに大食いだと思われるのも嫌だし…。逆に、一人分が食べられない少食の場合、二人で一人分をシェアしたり、二回に分けて食べたいという本音が、テイクアウトでは可能になる。

 

・あり得ない店のコラボ食卓が可能

フードコートでもない限り、別な店の物を一堂に食すのは難しい。基本飲食店で持ち込みはタブー。だけどテイクアウトなら、和洋折衷なんてお茶の子さいさい。パスポートなしでも国境を楽々超えられる、ボーダレスな食卓が実現する。

 

・自分のペースで好きなように食べられる

これはテイクアウトすべてに通じることだが、家で食べることの最大のいいところと言えるかもしれない。スーツを脱いで部屋着になれるし、好きなテレビを見つつ、人には見せられないような脱力しきった格好で、マナーも気にすることなく、好きなものを好きなように楽しめる。これ以上の至福があるだろうか。ただしこれは一人暮らしの場合。家族がいる場合はもちろん家族ルールに準ずるべし。

 

普通にお惣菜として売っているものより、お店のテイクアウトは割高感があるのは否めない。そして賞味期限も短いことが多い。でも、それに見合う価値がやはりある。プロの手作り感、店を思わせる臨場感が詰め込まれている。

 

家で食べても、大体はかなり美味しい。やっぱりお店の味は違うね~って思わせてくれる。

 

そして大体は…

 

「やっぱりお店で食べたいなぁ…」

 

って思わせてくれる。

 

どちらにも良さはあるが、お店でのびのび気持ちよく食べたい気持ちはいよいよ膨らんできている。最大限に、お店が提供してくれるサービスのすべて、雰囲気やこだわり、盛り付け等すべてコミコミで味わいたい。

 

コロナ禍で、テイクアウトの楽しみを新たに知ることができたのはプラス。

 

だが、『店で食べられないストレス』というものも同時に味わうことになった。

 

これも初めての味。形容しがたい味だが、確実に一つ言えることはある。

 

決して、美味しくはない!

 

テイクアウトが増え、店の創意工夫や惜しみない努力によってそのレベルはどんどん上がっている。もちろん店内で食べる環境づくりも最大限の対応をされているところが多い。

 

あと必要なのは…

 

コロナが落ち着いて以前のような環境になるのがベストだが

 

現状、withコロナ想定で考えると

 

店で食べる勇気も必要だが、何よりもまず、きちんと情報を集めることが大事。

 

店側は感染予防対応がちゃんとなされているか。自身も、外食する上での感染対策のマナーを理解し、実施できるレベルにあるか。

 

そもそもまだまだリスキーなこの状況でどうしても外食する必要があるのか?という根本的な件に関しての自己裁判も確実に開かれるのだが

 

それでもやはり、求めてしまう。

 

お店の味。店で食べることで完成される、その店の、100%の味。

 

だからこそ、テイクアウトにも手を出す。たとえ多少割高であっても!買って後悔はほとんどない。食欲は満たされる。ただ別な欲求は増すことがやや多い…。

 

まだまだ外食には及び腰。

 

だが、いずれやってくるだろう。

 

「店内でお召し上がりですか?お持ち帰りですか?」

 

その問いに全力の本音で答えられる時が

 

いずれ!

 

今から発声練習と満点スマイルの練習をしておかなければっ!!

 

 

 

40代と爪楊枝

なにも考えないで好き勝手できた10代。
イケイケノリノリだった無敵の20代。
若干身体と頭にズレや違和感を感じ始めた30代。

そしていま、内外ともに確実な老化の気配を認めざるを得ない40代。

同じように食べていたら、一枚、また一枚と己をコーティングする白いナチュラルヴェールが重厚になり

身体が重くなったせいなのか、体を動かすことがおっくうになり

運動したい、しなきゃという気持ちだけは強まっているものの、怪我しても治りが遅い、無理できないという建て前で、ますます肉体は甘やかされ

メタボ、生活習慣病へのレールにガッツリ乗ってるよなぁコレ…

と己を憂いまくる年代。

チラホラ目に付く白髪はもちろんだが、この歳になって初めて感じたことがある。

それは、モノが歯によく詰まるってこと!

これも老化じゃないだろうかっ?(なぜか興奮)

昼食後、何かが絶妙な角度で歯の隙間に引っかかってなかなか取れないでいた。口内吸引力を最大にしてみるもびくともしない。舌がつりそうなほど頑張ったがやはり取れない。

弱った。気になって仕事に集中できない…。

ふと、子供の頃、外食した際、食後に爪楊枝を使っていた親や祖父母の姿を思い出した。特に母。手で口元を隠しながら何やらやっている、どこか不可思議な食後の所作。子供心に不思議な感覚で眺めていた記憶がある。

なるほど。爪楊枝。こんな時にアレが欲しくなるのか!確かにアレならチョチョイと取れるだろう。なるほどぉ!!

爪楊枝。飲食店にはたいてい割り箸同様居座っているし、コンビニで貰える個包装割り箸にもたいてい同梱されている。後者はいつも爪の隙間を攻撃してくるから正直苦手な敵でもある。

これまで使う習慣も必要もなかったから散々な扱いだったが、ここへきて自分の中のモノの価値ランキングで急上昇。わが人生で初めてカレにスポットライトが当たった歴史的瞬間である!

ただ、ウチに本来の用途用の爪楊枝はない。竹串はあるのに。いつか爪楊枝が常備される時がくるのだろうか。家では…詰まってもすぐ歯磨きできるし、フロスも歯間ブラシもあるし…当分ないかな?

でも、以前何かの番組で見た覚えがある。驚くほどスッと歯の隙間に入って食べかすが気持ちよく取れるという爪楊枝。職人が作った爪楊枝。

使い捨てじゃなく、何度も使える、マイ爪楊枝。

…素敵じゃないか。

マイ箸のとなりに、マイ爪楊枝の居場所が設置される日は遠くないかもしれない。というかすでに導入してもいいかもしれない。今度調べてみよう。ちょっとイイ爪楊枝。これもある種『大人買い』という嗜みか?

歯に物が詰まる。それ自体は、おそらくあまり喜ばしい変化ではない。

だが、こうして新たな出会いや経験ができるとしたら、それはそれで素敵な変化じゃないか。

10代、20代、30代を経て、40代。同じものごとでも、より深く、いろいろな角度で味わうことができるようになっている。現に今日も、歯に詰まっていたゴマのかけらで歯垢…もとい思考の旅を楽しめた。爪楊枝の魅力(というか存在価値)、再発見。

楽しむための沸点は、いくら低くなっても問題がない。これは年を重ねるごとにより低くなっていって欲しいものだ。そういう変化は大歓迎。

まだまだ路線変更が可能な年代でもある40代。

理想の未来へ向かってガンバレ、40代!

老化の波も存分に楽しめ、40代!!